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役に立たない祈り

執筆者の写真: 2025年研究会2025年研究会

この文章を読んだ時の衝撃は、今でも覚えている。なぜなら、私も「惨事を招いた悪の存在」に愛を送ることを実践していたからだ。


秘教学で最も繰り返されるフレーズの一つ「エネルギーは思考に従う」を思いだせば、「悪に意識を向ける祈り」は役に立たないーと、漸く気づいた。


日本海にむけてミサイル発射を繰り返す主席、ウクライナへの攻撃を指示している大統領、ガザ地区への攻撃を繰り返す首相…そのほかにも日本社会で起きた悲惨な事件の加害者などなど。


そうか、彼らを改心させようとエネルギーを送ることは、応援になっていたのかもしれない。実際、この文章を読んでから、彼らに意識を向けずに祈るようにしてから、自分自身は整い、より高次の波動を感じるようになった。悪に意識を向け続けると、この世界に希望を感じられなかったが、善に意識を向け続けるほうが、希望が胸に湧いていくる。そのエネルギーを周囲に伝導させたほうが、自分には世界平和に貢献している実感はある。


祈願を唱え続けても、政治の世界をみると「お先真っ暗」に感じるが、社会には沢山の奉仕者がいること、その数は増え続けていることを感じる。きっともう少し時間が経てば、奉仕者の数のほうが多くなり、さまざまなことが変性していく流れのなかに、「希望する方々は現れる」と確信できる。


役に立たない祈りがある…という事実そのものが衝撃であるけど、これは本当に知ってよかったと思う知識である。実践を続けることで「悪ではなく善に意識をむける自分」に生まれ変わり、これからの社会に希望を確信できている自分がいますように。


以下の青色文字のシェアは「ハイラーキーの出現 上巻 P.342-343」より。長いので二つの分けましたが、実際は続いている文章です。




人々のハートから発せられるこうした要望は、ガリラヤのキリストの再臨を促すであろうか。 そうした要望は、神の生命や特質の未知なる別の様相をおそらく体現することになる偉大な神の子を顕現させるであろうか。 そうした要望は、さらなる神聖な啓示の体現を引き起こすであろうか。 仏陀が神の知恵を表現し、キリストが神の愛を明らかにしたように、新たに到来する方が、神の意志や目的の特質を私たちに明らかにし、邪悪な「力を得ようという意志」を地上から一掃するために活性化されなければならない「善をなさんという意志」を提示することは可能ではないだろうか。 私が提示するこの可能性に注目し、それについて考えてほしい。 そうすることで、もしこれがあらゆる祈願や祈りがもたらす正しい結果になるならば、物質的な利己性や欲深さに満ちたパーソナリティーの意志と、全人類を助けることを願う非利己的な意志は拮抗することになるであろう。低位我の意志と真我つまり魂の意志が衝突し、人類はどちらか一方に自らの影響力を及ぼすことになるであろう。




人類がどちらか一方に影響を及ぼすと言うとき、私は思考の力や非常に多くの人々が遠回しにメンタル・レベルでの仕事と呼ぶものだけを言っているのではない。メンタル的にも、情緒的にも、そして非常に力強く肉体的にも働く一人の人間まるごとの意識的な活動のことを言っているのである。 したがって、このような方法で働くことができるのは、統合されたパーソナリティーになっている人々だけであり、この点に一つの問題がある。メンタル的にしか働かない人々、つまり、座して愛の想念を世界に放ち、そうすることで自分の理想論の美しさに溺れている人々は今日、現実には自分以外の誰の役にも立っていない。 世界の惨事を招いた邪悪な人々のグループに愛の想念を送り、そうすることで彼らを良い方向に向かわせていると信じている人々がいる。愛とは本質的に非人格的な力つまりエネルギーであり、どのような効果を生み出すかは、そのエネルギーが接触し、影響を及ぼす形態のタイプによって違ってくるということを思い起こしてほしい。 そのため、利己的で物質主義的な性質を持ったものに注がれると、愛は欲望を肥大させ、一層貪欲な侵略行為を促進するだけであり、そのようにして低位性質を助長し、真の愛の表現を歪曲し、邪悪な活動を増大させることになる。非利己的で、純粋で、私心のないものに注がれると、愛はリアリティーと真の愛を育てる。 善意を持っているがオカルト的には無知な奉仕者は、この時期、こうした点を覚えておくべきである。



いま都知事選の真っ只中で、「この人だけは当選してほしくない」という候補がいたとしても、私自身はエネルギーを送らないようにーと気を付けている。仮に当選したとしたら、私の内に「なぜどうして」という落胆がエネルギーとなって残り、いずれは人生を蝕むように感じる。選挙というのは、アメリカをみても、対立候補に粗探しをする批判精神を刺激するように思う。


戦わずして、「この人に任せたい」と自然に満場一致する方法はないものだろうか。選挙によって選ばれるという民主主義は、別の新たなシステムに変化できる可能性はないだろうか。


選挙の結果というのは、現在の人類の意識、そして霊的成長の進化段階が現れでもある。どのような結果だとしても冷静に受けとめ、治そうというよりも、今ある意識が必ず前へ進化するようにと、祈願に意識を向けたいと思う。私は秘教徒として8年かけて、祈願を学び、瞑想を深めてきたのだから。


写真:ちょうど8年前の今日、7/3。渋谷の選挙フェスにて。

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