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映画「オッペンハイマー」

執筆者の写真: 2025年研究会2025年研究会

オッペンハイマーの愛読書は古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター。映画でも引用が何度か登場します。闘いに消極的なアルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身したクリシュナは「我は死神なり、世界の破壊者なり」と語りました。オッペンハイマーはクリシュナと自分を重ねあわせて、原爆の父となった自分を正当性したのでしょうか。


「世界はそれまでと変わってしまった。我は死神なり、世界の破壊者なり」


ただ「バガバットギータ」は、秘教徒が知る限り、世界の破壊を勧める本ではありません。オッペンハイマーが自責の念を払拭するために、バガバットギータを拠り所にしたのだろうと…考えられます。いずれにしろ、原爆開発の背景に、秘教徒にとっては馴染み深い聖典があったのは、驚き…というよりも納得する感覚がありました。




ちょうど一時間前に観て、このブログを書いています。映画ファンとしては、ノーラン監督らしく時系列ごちゃ混ぜのシーンの連続のため、あと二回くらい鑑賞しないと、ストーリーそのものは理解できないように感じます。


なので感じたことだけ、備忘録として残しておきます。DK大師も原爆のことについて、何度か書いていますが、今日はそことは絡めずに…。


結論から言うと、懸念されていた「広島長崎の悲劇が映像として全くない」という事実は、「広島長崎が尊重されていない」とは受け取りませんでした。この作品は、あくまでもオッペンハイマーという一人の科学者の内面を描いた作品であり、彼の表情や、その後の人生から、原爆を生んだ後悔をオッペンハイマーは負っていたことは伝わりました。


ちょうど一週間前に長崎を初訪問して、訪れた平和記念公園や資料館は、とても平和で穏やかな祈りの地場があったことを思うと、最初の原爆実験があったロスアラモスの今と比較すると、負のカルマを背負ったのは、明らかに合衆国であり、真の勝者は悲劇を乗り越え、緑豊かな都市を復興させた広島長崎の市民たちだと感じました。


その感覚にグランディングできていたので、映画は客観的に、淡々と、誰に心を寄せることもなく鑑賞できました。考えてみれば、日本人の私にとっての「広島長崎の悲劇」は子供のころから、写真やドラマ、日本映画で知り、学んだテーマです。悲惨な遺体や後遺症など、繰り返し観ては、何度も「繰り返してはいけない」と強く思いましたし、「こんな悲惨な目にはあいたくない。怖い」と子供のころは原爆の作品はトラウマになる本能的な怖さも感じました。でも同時に、その悲劇のなかでも輝いた家族愛、同胞愛に心から感動しました。


しかし、この「オッペンハイマー」は、そのアプローチとは全く違う視点から、原爆を作り出した科学者、権力をもった政治家の愚かしさを描いています。そう「人間の愚かしさ」は、昔から私が観ていた原爆映画では伝えられない視点であり、このような多角的に核兵器のことを考えられる映画は、核兵器の脅威が続くいまに必要だと思います。


「核兵器の脅威のなかで生きている現実」を感じられるラストシーンは、アカデミー作品賞に相応しい映画の品格を、私は感じました。それぞれが感じたことが、平和な明日の一つの種となりますように。


追記:作品に何度か登場するアインシュタインの座右の銘はブラヴァツキー夫人の「シークレットドクトリン」でした。そして、アリスベイリーの無二の友人はルーズベルト大統領夫人でした。秘教徒のエナジーをアインシュタインの在り方に感じるシーンは、この作品で唯一「ウキ」とハートが喜んだ場面でした。







 
 

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